2014年08月11日

今年の長崎市長平和宣言と被爆者代表のスピーチは、す・ご・かっ・た!!

今年の長崎の平和式典は、とても感動的なものだったように、ボチボチおばさんは思います(^_^)/
後で読み返しても、『いのちの叫び』のように思え、涙が溢れそうです!!
こういうことを、勇気を持ってできる人物のことを、ヒーロー、ヒロインというんですね!(^^)!

平和宣言で、田上長崎市長は、安倍コベの前で、「集団的自衛権」に言及されました!!
動画がもうこれしか残っていませんので、その下にある《平和宣言全文》もお読みください<(_ _)>

長崎 69回目の原爆の日 田上市長、集団的自衛権に言及(14/08/09)


《平和宣言全文》
 69年前のこの時刻、この丘から見上げる空は真っ黒な原子雲で覆われていました。米軍機から投下された一発の原子爆弾により、家々は吹き飛び、炎に包まれ、黒焦げの死体が散乱する中を多くの市民が逃げまどいました。凄まじい熱線と爆風と放射線は、7万4千人もの尊い命を奪い、7万5千人の負傷者を出し、かろうじて生き残った人々の心と体に、69年たった今も癒えることのない深い傷を刻みこみました。
 今も世界には1万6千発以上の核弾頭が存在します。核兵器の恐ろしさを身をもって知る被爆者は、核兵器は二度と使われてはならない、と必死で警鐘を鳴らし続けてきました。広島、長崎の原爆以降、戦争で核兵器が使われなかったのは、被爆者の存在とその声があったからです。
 もし今、核兵器が戦争で使われたら、世界はどうなるのでしょうか。
 今年2月メキシコで開かれた「核兵器の非人道性に関する国際会議」では、146か国の代表が、人体や経済、環境、気候変動など、さまざまな視点から、核兵器がいかに非人道的な兵器であるかを明らかにしました。その中で、もし核戦争になれば、傷ついた人々を助けることもできず、「核の冬」の到来で食糧がなくなり、世界の20億人以上が飢餓状態に陥るという恐るべき予測が発表されました。
 核兵器の恐怖は決して過去の広島、長崎だけのものではありません。まさに世界がかかえる“今と未来の問題”なのです。
 こうした核兵器の非人道性に着目する国々の間で、核兵器禁止条約などの検討に向けた動きが始まっています。
 しかし一方で、核兵器保有国とその傘の下にいる国々は、核兵器によって国の安全を守ろうとする考えを依然として手放そうとせず、核兵器の禁止を先送りしようとしています。
 この対立を越えることができなければ、来年開かれる5年に一度の核不拡散条約(NPT)再検討会議は、なんの前進もないまま終わるかもしれません。
 核兵器保有国とその傘の下にいる国々に呼びかけます。
 「核兵器のない世界」の実現のために、いつまでに、何をするのかについて、核兵器の法的禁止を求めている国々と協議ができる場をまずつくり、対立を越える第一歩を踏み出してください。日本政府は、核兵器の非人道性を一番理解している国として、その先頭に立ってください。 
核戦争から未来を守る地域的な方法として「非核兵器地帯」があります。現在、地球の陸地の半分以上が既に非核兵器地帯に属しています。日本政府には、韓国、北朝鮮、日本が属する北東アジア地域を核兵器から守る方法の一つとして、非核三原則の法制化とともに、「北東アジア非核兵器地帯構想」の検討を始めるよう提言します。この構想には、わが国の500人以上の自治体の首長が賛同しており、これからも賛同の輪を広げていきます。
 いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。
 長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。
 被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。
 長崎では、若い世代が、核兵器について自分たちで考え、議論し、新しい活動を始めています。大学生たちは海外にネットワークを広げ始めました。高校生たちが国連に届けた核兵器廃絶を求める署名の数は、すでに100万人を超えました。
 その高校生たちの合言葉「ビリョクだけどムリョクじゃない」は、一人ひとりの人々の集まりである市民社会こそがもっとも大きな力の源泉だ、ということを私たちに思い起こさせてくれます。長崎はこれからも市民社会の一員として、仲間を増やし、NGOと連携し、目標を同じくする国々や国連と力を合わせて、核兵器のない世界の実現に向けて行動し続けます。世界の皆さん、次の世代に「核兵器のない世界」を引き継ぎましょう。
 東京電力福島第一原子力発電所の事故から、3年がたちました。今も多くの方々が不安な暮らしを強いられています。長崎は今後とも福島の一日も早い復興を願い、さまざまな支援を続けていきます。
 来年は被爆からちょうど70年になります。
 被爆者はますます高齢化しており、原爆症の認定制度の改善など実態に応じた援護の充実を望みます。
 被爆70年までの一年が、平和への思いを共有する世界の人たちとともに目指してきた「核兵器のない世界」の実現に向けて大きく前進する一年になることを願い、原子爆弾により亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、広島市とともに核兵器廃絶と恒久平和の実現に努力することをここに宣言します。2014年(平成26年)8月9日
長崎市長 田上 富久

また長崎市は、今年の平和宣言に賛同を求めています。
賛同される方は、下方にあるボタンをクリックしてね(^_^)/
もちろん、ボチボチおばさんはクリック済です(^_-)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/appeal/
田上市長が、変な人や団体に襲われないことを、心から祈っています。

また、被爆者代表の城臺美弥子(じょうだいみやこ)さんの『平和への誓い』のスピーチが、す・ご・かっ・た!(^^)!
簡にして明、必要にして十分。完璧でした(^_^)/
途中に写っている、安倍コベの表情も見ものです!!目のやり場がなくて困っているご様子。。。


長崎平和祈念式典「平和への誓い」被爆者代表 投稿者 sievert311

《被爆者代表「平和への誓い」全文》 
一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。
 八月九日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。
 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。
 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。
 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキ...ラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。
 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務がありますしかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。
 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。
 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
 平成二十六年八月九日
 被爆者代表 城臺美弥子
(東京新聞)

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追記
前回の記事で書いた『浦上天主堂の真実』について、もっと詳しく書かれた記事があり、また本も出ていました。
1945年8月9日の爆撃長崎 キリスト教会と国家についての歓迎されざる真実
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/194589-7f2a.html
『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』
http://honto.jp/netstore/pd-book_25710317.html

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2014年08月09日

浦上天主堂(長崎)の真実

今日は長崎ピカドンの日、です。
午前11時02分でした。

ところで、今、長崎に行くと、浦上天主堂は観光地の一つになっています。
今の浦上天主堂.JPG

しかし、浦上天主堂は、長崎原爆のほぼ爆心地でした。

被曝直後の浦上天主堂付近の写真
浦上天主堂2−1.JPG

浦上天主堂3−1.JPG

浦上天主堂4.JPG

しかし、アメリカにとっては、キリスト教会に原爆を落としたことが、とても都合が悪かった(アメリカはキリスト教信者が多いので)ので、どうにかしてその証拠を消したかったようです。

ウキペディアより
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原爆遺構の撤去[編集]

1.浦上小教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再築計画を明らかにする。その動きを覚知した原爆資料保存委員会は、1958年(昭和33年)に『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する』と提案した。しかし、当時のカトリック長崎司教・山口愛次郎は、『天主堂の立地には、江戸時代のキリスト教迫害時代の由緒ある土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできない』という意思を決定した(浦上教会公式サイトにも同様の経過が記載されている)。

2.当時の長崎市長・田川務は、米国セントポール市との姉妹都市締結を機に今後の日米関係など政治的背景を重視し、1958年の市議会で「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。

被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に破壊撤去を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されることになった。一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県広島市の『原爆ドーム』(旧広島県産業奨励館)の様に爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えることが出来る遺物を残さなかったこと、また原爆ドームが史跡やユネスコの世界遺産に登録されたこと等から、取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い。ただし、浦上教会信徒会館2階には再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯・ロザリオなど)を展示する資料室を併設しており、自由に見学が出来る。
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確かに、戦争を早く止めようとしなかった日本も愚かだとは思うけど、こんなに酷い被害を被っているのに、それでもなお「アメリカに配慮」しなければいけなかった、そこまでどうして卑下しなければいけないのか?、と私は思います。
日本人独特の「おもいやり」ということですかね???

あのまま、被曝した浦上天主堂を爆心地として残して欲しかった、と、ボチボチおばさんは思います。
いかに、プルトニウム爆弾の威力がすごいものかを、後世に残すことが出来たのに……。
いかに、アメリカが酷いことをしたかを、残すことが出来たのに……。


やはり、今も、日本は、アメリカの植民地状態のような気が、私はします。
米軍基地は減ることなく、沖縄も相変わらずで、オスプレイは押しつけられ、それでもNOを言えない。
アメリカに、「米軍基地の土地を返してもらえないでしょうか?」と、なぜ言えないんですかね?
日本は、憲法9条があるのだから、もう戦争はしないと言っているのですからね!!

まだ、戦後は続いています。
平和と見えたのは、幻に過ぎません。
今の日本の現状を、まっさらな目で見つめ、私たち市民がどういう行動を取ったらいいのか、よ〜く考えましょう(^_^)/


追記
後日判ったのですが、『浦上天主堂の真実』について、もっと詳しく書かれた記事があり、また本も出ていました。
1945年8月9日の爆撃長崎 キリスト教会と国家についての歓迎されざる真実
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/194589-7f2a.html
『ナガサキ消えたもう一つの「原爆ドーム」』
http://honto.jp/netstore/pd-book_25710317.html

どうぞ、ご参考になさってください<(_ _)>



posted by ボチボチおばさん at 09:59| Comment(0) | 反核 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月06日

2枚の写真が私たちに教えてくれること(長崎)

昨日(8月6日)は、69年前に広島に原子力爆弾が落とされた日です。
「原爆」よりも、実際に被曝された人々の口から湧き出た言葉「ピカドン」の方が、より実感が出来る気がすると、詩人のアーサー・ビナードさんが言われているし、私もそう思います。
「ピカドンの日がやってくる」
http://botibotiikokaaa.seesaa.net/article/403070952.html

そして、3日後の8月9日には、長崎にプルトニウム爆弾が投下されました。
もし本当に戦争を止めるためなら、こんなに矢継早に物凄い破壊力のある爆弾を、落とすでしょうか?
何かおかしいと思います。
やはりこれは、人体実験だったのではないでしょうか?
しかも、終戦後、米軍は、広島でも長崎でも何も治療活動をしなかったそうです。
ただ、データを集めただけのようです。
日本の医師が治療をしようとすると、警察に捕まったと、広島で医師として活動されていた肥田舜太郎さんは言われていました。
(3回、捕まったと言われていました。)
いったい、米軍は、どこまで日本人をバカにしたかったのでしょうか???

しかし、米軍の兵隊の中には、心ある方がいらっしゃった。
この写真を、どこかで見た人は多いと思います。

焼場に立つ少年.JPG

従軍カメラマンのジョー・オダネル氏は、被曝後の長崎で、仕事として写真を撮っていました。
その時に、この少年を焼場近くで見つけた。
少年は、焼場で背中に幼児をおぶい、直立不動で、10分近く待っていた。その時の写真だそうです。
その時、近くにいた大人たちがおぶいひもをとき、赤ちゃんを降ろした時に、赤ん坊が死んでいることに、オダネル氏は気が付いたそうです。
少年は火葬される弟を見つめていた。噛みしめた唇に血がにじんでいた。炎が静まると、少年はきびすを返し、黙ったまま去っていったそうです。
オダネル氏は、少年のもとに駆け寄って、慰めてあげたかった。でも、しなかった。
そうすると、少年は泣き崩れるだろうと思ったから、と後年、話されています。
オダネル氏は、カメラ2台を持ち、従軍用の写真と、自分用の写真を撮った。
しかし、被爆地の惨状に打ちのめされ、46年に帰国した時に、自分用のネガはトランクに詰め、屋根裏にしまい込んだ。罪悪感で見ることが出来なかったそうです。
それもあるけど、きっと私用に撮っていたことがばれると、軍からお咎めがあったのでは、と私は思います。
また、その後オダネル氏自身も、原爆症にかかり、命のあるうちにと、50年後に「トランクの中の日本」(小学館 現在絶版)に発表され、大きな反響を呼びました。
オダネル氏は、この少年と再会したいと探されたそうですが、結局、再会することなく、2007年に85歳で亡くなりました。
きっと、この少年は、既に亡くなっていたのでしょう。
とても話題になったのに、名乗り出られていませんので。
そして、私が思うに、ご家族、ご親戚もほとんど亡くなったのでしょうね。
この写真一枚を見ても、いかに戦争が悲惨なのかが、よく判ります。。。。。

そして、長崎では、とても多くの人が被曝後、苦しまれました。
その中の一人、谷口稜曄(すみてる)さんは、あの日、郵便局員として郵便配達の途中に、被曝されました。
そして、終戦後、この写真が世界中に注目されました。

原爆による火傷を負った少年(長崎).JPG

幸いにも、命は助かり、今もご健在で、長崎原爆被災者協議会会長として活躍されています。
IWJの岩上安見さんが、昨年インタビューをされています。
2013/08/09 「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」 〜岩上安身による谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会会長インタビュー http://iwj.co.jp/wj/open/archives/95640



《文字起こし》
(途中まで。確かに気持ち悪くなる箇所があるかもしれないけど、69年前に、これが現実に起こったことなのです。)
岩上:みなさんこんにちは。
ジャーナリストの岩上安身です。
大変暑い夏の昼下がり。本日は私、長崎の方に伺っております。

この、大変有名な被ばくした少年の写真があります。
背中が一面焼けただれてしまった。
長崎の原爆によって被爆したわけですけれども、
この方が谷口稜曄さん。
そして、本日お伺いするのはその谷口さんです。
谷口さん、よろしくお願いします。

谷口さんは日本原水爆被害者団体協議会、約して被団協という、
その代表委員という事なんでしょうか?

谷口:はい、そうですね。
岩上:
長崎原爆被災者協議会、こちらの会長もお努めになっている。
今ちょっと、お名刺の裏側の写真をみなさんにお見せしたんですけれども、
この背中の具合はどうなんですか?
大変やっぱり後遺症がきつい状態にある?

谷口:
完全に焼けてしまっている関係でですね、
結局皮膚呼吸ができない関係で、非常に夏というのは苦しいんですね。
特に今年は暑くてね、もう背中が沸騰するみたいで苦しいですね。

岩上:
申し訳ありません、そのコンディションの良くない時にですね、
お時間を少し割いていただきました。
今年は長崎に原爆が投下されて68回目。
本日はその68回目の当日に当たります。
そして午前中から式典も行われました。
ご出席もなされたと思いますけれども、我々も中継を行っていたんですが、
改めてですね、一般的な事でもあるんですけれども、
68回を迎えての思いというものを一言いただけないでしょうか。

谷口:
それはやはり、犠牲になってはそういう事が出来ないですけど、
あらためて68年目の8月9日というものを思い、否が応でも生まれたのが大事という日なんですね。
その当時私は16歳で、爆心地から約1.8kmのところを自転車で郵便配達を配っていました。

岩上:
郵便配達の仕事をしていた。
あの、思いだすという事は大変お辛い事と思いますが、当時の忘れられない事ですけれども、
その郵便配達の仕事をしている時に、どのように爆発に出会い、大けがを負われたのか。
ちょっとひとこと。

谷口:
結局爆心地から約1.8kmのところを走っていて、後ろから焼かれました。
それで、空襲警報が解除になってね、配達を開始したんですが、
その時にかすかに飛行機の爆音がして「おかしいな」と思って をした途端にあっという間の出来事ですよね。

岩上:あー、なにか飛行機の爆音が聞こえておかしいなと思った瞬間に閃光が走ったと。

谷口:そうです。

岩上:え…、あっという間の出来事だったと。

谷口:
結局よく言われる3000度、4000度と言われるね、石や鉄を溶かす熱線と、
目には見えない放射線とで後ろから焼かれて、
次に秒速で200億300億と言われる爆風で自転車もろとも飛ばされて、道路に叩きつけられました。
道路に伏せていた時にね、「これじゃ死んでしまう」という死の恐怖を味わいましたけど、
「ここで死ぬもんか」「死んじゃならんぞ」と自分を励まして生きてきたんです。
そして途中で へ入って見てみると、ずーっとあった家はほとんど焼けてしまって、
溶けてしまって、焼けてしまって、
近くで遊んでいた子どもがこっちへ飛ばされてしまっていた。
それでまた大きな石がね、直径31ぐらいある石でしょうかね、
私の方ををめがけて飛んでくるというのも見えました。

そこでね、「ここで死んじゃう」と死の恐怖に襲われましたが、
「ここで死ぬもんか」「死んじゃならん」と自分を励ましてきた。

しばらくして、がおさまって起き上ってみると、
左の手は腕から手の先までおもりを下げたように皮膚が垂れ下がり、
背中に手を当ててみると左側はなんにもなく、焼けただれたように黒く が手に付きました
それで乗ってた自転車を見てみると、車体も車輪も使い物にならない位に曲がってしまってた。
あの時 でやったのが だと思います。
一滴の血も無い、痛みも全く感じない それも皮の状態
そのなかで放心の状態でとぼとぼ歩いて、あれからは何処にいけば  火事で焼けたりしていました。

岩上:あの、痛みが全くない状態というのはどういう事ですか?
谷口:
結局、なんていうんでしょうかね、
よく鞭などでピシャッ!と叩かれる時にね、アイタッ!って言うだけでね痛みをしばらく感じない、
そんなものだよね。
しばらくしてから痛みが出てくる。
 ってしまえば 殆ど痛みってなかった。

岩上:いつ頃感じるようになったんですか?

谷口:
だから、結局なんていうのか、血は出ないし、痛みは感じないし、
だから夢遊病者みたいにね、 の行き先は で焼いていったんだ

岩上:え、どこへ向かったんですか?

谷口:
その時、250ちかく離れた所にね、トンネル工場に避難しました。
途中で、先ほど言ったここに飛ばされた子どもがね、一人の子どもは黒焦げになって死んでいて、
ひとりの子どもは何の傷もうけないで死んでしまった。
そういうのを見ながら、またまわりには、女性の人達は男か女か分からない状態で それを見ながら
様子を見ながら「どうしよう」という気も起らなかった。
で、トンネルまで行って、
そこでその中にいた女の人に頼んでね、
腕に下がった皮膚が邪魔だからそれを取ってもらいました。

岩上:手に下がって皮膚が邪魔だからと、どんな状態で

谷口:
結局、ここからダラーッと下がっている訳ね。
ここから剥げていて、ここに溜まってダラーッと下がっている。

岩上:それは背中の方からの皮膚?

谷口:いや左の手、

岩上:左の手

谷口:
左手。
背中はもう焼けてしまっていますから、何もなかった。
これが約1カ月後の写真です。

これが頭ですね、こっちがお尻の方です。
これが左手ですね。
 ですから、これ下は焼けていませんから皮膚がありますけど、
こう焼けたところは骨。
皮膚も何もなくて骨ばかり。ここに骨が見えてる。

下の方は腐って溜まっていますけどね。

岩上:なにが溜まっているんですか?


谷口:
腐って流れて溜まっている。

これ真ん中に黒いところがありますけど、
ここは15年経ってもこの傷はふさがらなかった。

これは結局芯の底まで焼けてしまって、石みたいのが出てくるんです。


岩上:白くなっているのはどういうことなんですか?

谷口:これは薬なんです。

岩上:あ、薬なんですか。

谷口:ええ。

岩上:これは、痩せてて本当にご飯ものどを通らなかったんじゃないですか?

谷口:
そうですね、食べ物だって今みたいにそんなに無いですからね。
こうやってうつぶせに寝たっきりですから。
で、こいつは、これは半年位。

岩上:あーこれは半年経って・・・。

谷口:
こっちはアメリカのカメラマンのジョー・オダナルという人が写した
こっちは約半年後で、アメリカの原爆、新爆弾調査のハーバード・スミスさんという人が写したもの。
これは なんかに記録されていますけれどもね、21年の1月31日に撮影。

こんな状態でですね、1年9ヶ月寝たきりですから、
だから骨が腐ってしまいました。

岩上:骨が?

谷口:骨が腐ってしまった。

岩上:腐ってしまった。

谷口:だから今でも骨と骨の間からね、心臓が動いているのが目で見る事が出来る。

岩上:・・・

谷口:ピクピクッてね、動いている。

岩上:心臓が見える。

谷口:ええ。ピクピクッと動いているのが見えます。

岩上:・・・・いや・・・・奇跡的ですね

谷口:
誰一人としてね、「生きる」っていう人はいなかったんです。
毎朝看護婦さんが病室に出てきて、「今日も生きてる」「今日も生きてる」と廊下でささやいてた。

このように被爆した関係でトンネルへ入って、左手の皮膚を切り取ってもらって、
しばらくすると、そこへね、まだ攻撃されるかもわからないから避難所へと言われましたけど、
10分も過ぎてなかったかな、とにかく自分の力で立ち上がる事が出来なかった。
で 元気な人に背負われて、山の上の木の陰の草の上に寝かされた。
そこで二晩過ごして、3日目の朝にやっと救出されて、
なんか2km離れている医者のところにおくられました。

ま、そこでもしばらく治療は受けられなくてね、
で、送られていって、それから3日ぐらい経ってから、
やっと傷から血が少しずつじわじわと出てきました。


岩上:それまで血が出なくて、火ぶくれのようになってたんですか?

谷口:
結局全然血が出なかったね。
もうあの時に完全に、血管からなにまで全部侵されてしまったんでしょう。
だから、6日ぐらいしてからやっと血が出始めて、
それでたまに痛みがじわじわと襲ってくるけどね、
それは私にとって、まだ痛いというほどじゃなかったね。

それで、1ヶ月ぐらい全く血が ができなくて、
9月になってから、やっと が出来るように多少はこう、
そこで 大丈夫だろうという事で に送られてきました。

そこで一番初めにやったのが輸血ですが、
輸血だって、血管に注射針をさせますが、入っていかない。

岩上:注射が打てない。

谷口:はい。

岩上:輸血が出来ない。

谷口:
輸血でもね、入っていかない。
なんかそれで結局、内臓も全部侵されてしまっていたんでしょうね。

岩上:内臓が全部・・・

谷口:はい、心臓からなにから侵されてしまって、

岩上:侵されてしまっていた。

谷口:
だからそんな中で、あの時は牛を殺して肝を持ってきてね、
目の前に小さく切って、それを「生で食べなさい」と言われて、
「焼いたり炊いたりしたんじゃだめだ」っていうのね。

岩上:焼いたり炊いたりしちゃダメだと、生じゃないと…

谷口:はい。

岩上:どうしてですか?

谷口:それは結局血液がね、出来ないからでしょうね。

岩上:たとえば生のレバーみたいなものを食べると。そうすると血を取りこめるという事ですか?

谷口:
そうでしょうね。
だけどその頃は、原爆症のことは誰も知らないですからね。
なんか、そんな事をしてもよくならないし、
ずっと日にちが経つにつれて、焼けたところが腐って、流れていくわけね。


岩上:ああ・・・火ぶくれが大きくなって破れて、血が出て、・・腐っていくんですか?

谷口:
腐っていく。
そのやけどの写真のようにね、ただ横に溜まって、1日何回もぼろ切れでつまんで背中を洗ったんです。

岩上:痛かったですか?

谷口:
もう、痛いというんじゃなくて、苦しくて苦しくてね、
(映像はここまでです。)


まだインタビューは続いたようですが、映像がないので、文字起こしもここで切ります。
インタビューの概要が、下記です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
遡ること68年前、郵便局に勤務していた谷口氏は、長崎市住吉町の路上で集配中、轟音とともに襲来した爆風で吹き飛ばされた。「自転車に乗ったまま、後ろから焼かれ、飛ばされた。『ここで死んでしまうのか』という思いが頭をかすめた」。気がつけば、左手は肩から指先まで皮膚がべろりと垂れ下がっており、そばには、ぐにゃりと曲がった自転車と黒こげになった子どもの死体があったという。「私の体からは血は一滴も流れず、痛みを感じることもなかった。ムチで叩かれたように、一瞬だけ、すごく痛かったように覚えている」と説明し、こう続けた。「『死んでたまるか』と自分で自分を励ましながら、木の陰で2晩を過ごし、3日目の朝にようやく救助された」。

 その後は、うつ伏せ状態で寝たきりの生活に。「日がたつにつれ、焼けた部分がどんどん腐り始め、腐ったものが体の外に流れ出るのがわかった。1日に何度もボロ布でふき取られた。苦しくて苦しくて、たまらなかった。ペニシリンを使ったが、ほとんど効き目はなかった。しばらくして、特殊な飲み薬を服用するようになり、ようやく改善へと向かった」。

 自力でベッドから抜け出せたのは、1947年5月のことだったが、その折の痛みたるや尋常ではなかったという。「2年近く寝たきりだったのだ。頭から足の方向へと血液が流れる感覚を、私の体が完全に忘れており、立った時は針で刺すような激痛が全身を走った。目を閉じてこらえるほかなかった」。また、谷口氏は「寝たきりから開放されても喜べなかった。『こんな体で、社会復帰できるのだろうか』という不安が大きかった。戦争を憎み、原爆を憎んだ」と振り返った。

 退院後、谷口氏は郵便集配の仕事に復帰する。岩上が「体に無理はなかったのか」と尋ねると、「自分を鼓舞して必死に働いたのだが、背中の具合はずうっと悪く、その後、14回入院し、皮膚の移植を重ねた」と明かした。岩上が、さらに「健康被害と対峙しながら、社会復帰を果たした時、戸惑いはなかったか」と問うと、谷口氏は「戦時中は『国のために』という言葉をさんざん聞いた。それに対し、『本当は国のためではなく、一部の人たちのために、兵士のみならず、われわれ一般国民も戦わされたのではないか』と疑問を感じるようになった」と話した。

 現在、長崎原爆被災者協議会の会長を務める谷口氏は、「核廃絶」を訴える活動に尽力中である。長崎を訪れた修学旅行生に被爆体験を語る「語り部」を、ライフワークとして長年続けている。岩上が「核の平和利用、という宣伝文句で始まった原発事業が、福島であれだけの事故を起こしたにもかかわらず、再開されるムードが高まっている。一方では、日本に軍国主義が再来する兆候も見られるが」と水を向けると、谷口氏は「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」と明言。次のように力説した。「私が長崎で浴びた放射能も、福島の事故で広がった放射能も、まったく同じ放射能だ。だから、われわれ被爆者は『核兵器をなくさなければいけない』と訴えるし、それと同時に『原発もなくさなければいけない』と訴えるのだ」。

 谷口氏は「原発の廃絶を訴える機運は、広島より長崎の方が強いのではないか」との見方を示す。長崎に投下されたプルトニウム型爆弾は、現代の核兵器の主体であり、原発の技術は軍事転用されるためだ。「長崎では、福島の原発事故が起こる前から、原発反対を表明していた」とした谷口氏は、「日本政府がインドに原発を輸出するという話が伝えられているが、『何を考えているのか』と安倍晋三首相に抗議したい。長崎の被爆者は、そういう思いだ」と力を込めた。この日、長崎市の田上富久市長は平和祈念式典で、「NPT(核拡散防止条約)に加盟しないインドへの原子力協力は、NPTの形骸化につながる」と平和宣言を読み上げている。
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そして今年の、長崎の平和式典では、田上市長は、「集団的自衛権」についても言及すると、ネットのニュースで読みました!!
一体、何のために多くの人々が犠牲になり、後世の私たちに伝えたかったのは何なのか、よく考える必要があると思います!!
広島の平和公園の石碑にある「過ちは繰り返しませんから」という言葉、心に深く刻み、何度も思い返したいと思います。
と一般人の私が思えることが、どうして政治家のみなさんに理解できないのか、、、(-_-;)
安倍コベは、広島と長崎の平和式典に参加して、何も感じないのだろうか……(;_:)
何も感じないとしたら、本当の阿呆としか思えません。。。
こんな御仁をだれが首相なんぞにしたのか、、、、、、、、

ヒロシマ、ナガサキで起きたことを、私たち日本人は後世に引き継ぎ、伝えて行く義務があると、私は思います。

私は、まだ広島の平和式典に参加していないのですが(-_-;)、私の友人は、毎年、ご家族で、広島、長崎と、訪ねている人がいます。
私より、若い世代のご家族です。
何だか、頼もしく、誇らしく思います!(^^)!
ボチボチおばさんも、いつかは、行かなくては、ねっ!!!









posted by ボチボチおばさん at 14:31| Comment(0) | 反核 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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