2014年08月06日

2枚の写真が私たちに教えてくれること(長崎)

昨日(8月6日)は、69年前に広島に原子力爆弾が落とされた日です。
「原爆」よりも、実際に被曝された人々の口から湧き出た言葉「ピカドン」の方が、より実感が出来る気がすると、詩人のアーサー・ビナードさんが言われているし、私もそう思います。
「ピカドンの日がやってくる」
http://botibotiikokaaa.seesaa.net/article/403070952.html

そして、3日後の8月9日には、長崎にプルトニウム爆弾が投下されました。
もし本当に戦争を止めるためなら、こんなに矢継早に物凄い破壊力のある爆弾を、落とすでしょうか?
何かおかしいと思います。
やはりこれは、人体実験だったのではないでしょうか?
しかも、終戦後、米軍は、広島でも長崎でも何も治療活動をしなかったそうです。
ただ、データを集めただけのようです。
日本の医師が治療をしようとすると、警察に捕まったと、広島で医師として活動されていた肥田舜太郎さんは言われていました。
(3回、捕まったと言われていました。)
いったい、米軍は、どこまで日本人をバカにしたかったのでしょうか???

しかし、米軍の兵隊の中には、心ある方がいらっしゃった。
この写真を、どこかで見た人は多いと思います。

焼場に立つ少年.JPG

従軍カメラマンのジョー・オダネル氏は、被曝後の長崎で、仕事として写真を撮っていました。
その時に、この少年を焼場近くで見つけた。
少年は、焼場で背中に幼児をおぶい、直立不動で、10分近く待っていた。その時の写真だそうです。
その時、近くにいた大人たちがおぶいひもをとき、赤ちゃんを降ろした時に、赤ん坊が死んでいることに、オダネル氏は気が付いたそうです。
少年は火葬される弟を見つめていた。噛みしめた唇に血がにじんでいた。炎が静まると、少年はきびすを返し、黙ったまま去っていったそうです。
オダネル氏は、少年のもとに駆け寄って、慰めてあげたかった。でも、しなかった。
そうすると、少年は泣き崩れるだろうと思ったから、と後年、話されています。
オダネル氏は、カメラ2台を持ち、従軍用の写真と、自分用の写真を撮った。
しかし、被爆地の惨状に打ちのめされ、46年に帰国した時に、自分用のネガはトランクに詰め、屋根裏にしまい込んだ。罪悪感で見ることが出来なかったそうです。
それもあるけど、きっと私用に撮っていたことがばれると、軍からお咎めがあったのでは、と私は思います。
また、その後オダネル氏自身も、原爆症にかかり、命のあるうちにと、50年後に「トランクの中の日本」(小学館 現在絶版)に発表され、大きな反響を呼びました。
オダネル氏は、この少年と再会したいと探されたそうですが、結局、再会することなく、2007年に85歳で亡くなりました。
きっと、この少年は、既に亡くなっていたのでしょう。
とても話題になったのに、名乗り出られていませんので。
そして、私が思うに、ご家族、ご親戚もほとんど亡くなったのでしょうね。
この写真一枚を見ても、いかに戦争が悲惨なのかが、よく判ります。。。。。

そして、長崎では、とても多くの人が被曝後、苦しまれました。
その中の一人、谷口稜曄(すみてる)さんは、あの日、郵便局員として郵便配達の途中に、被曝されました。
そして、終戦後、この写真が世界中に注目されました。

原爆による火傷を負った少年(長崎).JPG

幸いにも、命は助かり、今もご健在で、長崎原爆被災者協議会会長として活躍されています。
IWJの岩上安見さんが、昨年インタビューをされています。
2013/08/09 「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」 〜岩上安身による谷口稜曄(すみてる)長崎原爆被災者協議会会長インタビュー http://iwj.co.jp/wj/open/archives/95640



《文字起こし》
(途中まで。確かに気持ち悪くなる箇所があるかもしれないけど、69年前に、これが現実に起こったことなのです。)
岩上:みなさんこんにちは。
ジャーナリストの岩上安身です。
大変暑い夏の昼下がり。本日は私、長崎の方に伺っております。

この、大変有名な被ばくした少年の写真があります。
背中が一面焼けただれてしまった。
長崎の原爆によって被爆したわけですけれども、
この方が谷口稜曄さん。
そして、本日お伺いするのはその谷口さんです。
谷口さん、よろしくお願いします。

谷口さんは日本原水爆被害者団体協議会、約して被団協という、
その代表委員という事なんでしょうか?

谷口:はい、そうですね。
岩上:
長崎原爆被災者協議会、こちらの会長もお努めになっている。
今ちょっと、お名刺の裏側の写真をみなさんにお見せしたんですけれども、
この背中の具合はどうなんですか?
大変やっぱり後遺症がきつい状態にある?

谷口:
完全に焼けてしまっている関係でですね、
結局皮膚呼吸ができない関係で、非常に夏というのは苦しいんですね。
特に今年は暑くてね、もう背中が沸騰するみたいで苦しいですね。

岩上:
申し訳ありません、そのコンディションの良くない時にですね、
お時間を少し割いていただきました。
今年は長崎に原爆が投下されて68回目。
本日はその68回目の当日に当たります。
そして午前中から式典も行われました。
ご出席もなされたと思いますけれども、我々も中継を行っていたんですが、
改めてですね、一般的な事でもあるんですけれども、
68回を迎えての思いというものを一言いただけないでしょうか。

谷口:
それはやはり、犠牲になってはそういう事が出来ないですけど、
あらためて68年目の8月9日というものを思い、否が応でも生まれたのが大事という日なんですね。
その当時私は16歳で、爆心地から約1.8kmのところを自転車で郵便配達を配っていました。

岩上:
郵便配達の仕事をしていた。
あの、思いだすという事は大変お辛い事と思いますが、当時の忘れられない事ですけれども、
その郵便配達の仕事をしている時に、どのように爆発に出会い、大けがを負われたのか。
ちょっとひとこと。

谷口:
結局爆心地から約1.8kmのところを走っていて、後ろから焼かれました。
それで、空襲警報が解除になってね、配達を開始したんですが、
その時にかすかに飛行機の爆音がして「おかしいな」と思って をした途端にあっという間の出来事ですよね。

岩上:あー、なにか飛行機の爆音が聞こえておかしいなと思った瞬間に閃光が走ったと。

谷口:そうです。

岩上:え…、あっという間の出来事だったと。

谷口:
結局よく言われる3000度、4000度と言われるね、石や鉄を溶かす熱線と、
目には見えない放射線とで後ろから焼かれて、
次に秒速で200億300億と言われる爆風で自転車もろとも飛ばされて、道路に叩きつけられました。
道路に伏せていた時にね、「これじゃ死んでしまう」という死の恐怖を味わいましたけど、
「ここで死ぬもんか」「死んじゃならんぞ」と自分を励まして生きてきたんです。
そして途中で へ入って見てみると、ずーっとあった家はほとんど焼けてしまって、
溶けてしまって、焼けてしまって、
近くで遊んでいた子どもがこっちへ飛ばされてしまっていた。
それでまた大きな石がね、直径31ぐらいある石でしょうかね、
私の方ををめがけて飛んでくるというのも見えました。

そこでね、「ここで死んじゃう」と死の恐怖に襲われましたが、
「ここで死ぬもんか」「死んじゃならん」と自分を励ましてきた。

しばらくして、がおさまって起き上ってみると、
左の手は腕から手の先までおもりを下げたように皮膚が垂れ下がり、
背中に手を当ててみると左側はなんにもなく、焼けただれたように黒く が手に付きました
それで乗ってた自転車を見てみると、車体も車輪も使い物にならない位に曲がってしまってた。
あの時 でやったのが だと思います。
一滴の血も無い、痛みも全く感じない それも皮の状態
そのなかで放心の状態でとぼとぼ歩いて、あれからは何処にいけば  火事で焼けたりしていました。

岩上:あの、痛みが全くない状態というのはどういう事ですか?
谷口:
結局、なんていうんでしょうかね、
よく鞭などでピシャッ!と叩かれる時にね、アイタッ!って言うだけでね痛みをしばらく感じない、
そんなものだよね。
しばらくしてから痛みが出てくる。
 ってしまえば 殆ど痛みってなかった。

岩上:いつ頃感じるようになったんですか?

谷口:
だから、結局なんていうのか、血は出ないし、痛みは感じないし、
だから夢遊病者みたいにね、 の行き先は で焼いていったんだ

岩上:え、どこへ向かったんですか?

谷口:
その時、250ちかく離れた所にね、トンネル工場に避難しました。
途中で、先ほど言ったここに飛ばされた子どもがね、一人の子どもは黒焦げになって死んでいて、
ひとりの子どもは何の傷もうけないで死んでしまった。
そういうのを見ながら、またまわりには、女性の人達は男か女か分からない状態で それを見ながら
様子を見ながら「どうしよう」という気も起らなかった。
で、トンネルまで行って、
そこでその中にいた女の人に頼んでね、
腕に下がった皮膚が邪魔だからそれを取ってもらいました。

岩上:手に下がって皮膚が邪魔だからと、どんな状態で

谷口:
結局、ここからダラーッと下がっている訳ね。
ここから剥げていて、ここに溜まってダラーッと下がっている。

岩上:それは背中の方からの皮膚?

谷口:いや左の手、

岩上:左の手

谷口:
左手。
背中はもう焼けてしまっていますから、何もなかった。
これが約1カ月後の写真です。

これが頭ですね、こっちがお尻の方です。
これが左手ですね。
 ですから、これ下は焼けていませんから皮膚がありますけど、
こう焼けたところは骨。
皮膚も何もなくて骨ばかり。ここに骨が見えてる。

下の方は腐って溜まっていますけどね。

岩上:なにが溜まっているんですか?


谷口:
腐って流れて溜まっている。

これ真ん中に黒いところがありますけど、
ここは15年経ってもこの傷はふさがらなかった。

これは結局芯の底まで焼けてしまって、石みたいのが出てくるんです。


岩上:白くなっているのはどういうことなんですか?

谷口:これは薬なんです。

岩上:あ、薬なんですか。

谷口:ええ。

岩上:これは、痩せてて本当にご飯ものどを通らなかったんじゃないですか?

谷口:
そうですね、食べ物だって今みたいにそんなに無いですからね。
こうやってうつぶせに寝たっきりですから。
で、こいつは、これは半年位。

岩上:あーこれは半年経って・・・。

谷口:
こっちはアメリカのカメラマンのジョー・オダナルという人が写した
こっちは約半年後で、アメリカの原爆、新爆弾調査のハーバード・スミスさんという人が写したもの。
これは なんかに記録されていますけれどもね、21年の1月31日に撮影。

こんな状態でですね、1年9ヶ月寝たきりですから、
だから骨が腐ってしまいました。

岩上:骨が?

谷口:骨が腐ってしまった。

岩上:腐ってしまった。

谷口:だから今でも骨と骨の間からね、心臓が動いているのが目で見る事が出来る。

岩上:・・・

谷口:ピクピクッてね、動いている。

岩上:心臓が見える。

谷口:ええ。ピクピクッと動いているのが見えます。

岩上:・・・・いや・・・・奇跡的ですね

谷口:
誰一人としてね、「生きる」っていう人はいなかったんです。
毎朝看護婦さんが病室に出てきて、「今日も生きてる」「今日も生きてる」と廊下でささやいてた。

このように被爆した関係でトンネルへ入って、左手の皮膚を切り取ってもらって、
しばらくすると、そこへね、まだ攻撃されるかもわからないから避難所へと言われましたけど、
10分も過ぎてなかったかな、とにかく自分の力で立ち上がる事が出来なかった。
で 元気な人に背負われて、山の上の木の陰の草の上に寝かされた。
そこで二晩過ごして、3日目の朝にやっと救出されて、
なんか2km離れている医者のところにおくられました。

ま、そこでもしばらく治療は受けられなくてね、
で、送られていって、それから3日ぐらい経ってから、
やっと傷から血が少しずつじわじわと出てきました。


岩上:それまで血が出なくて、火ぶくれのようになってたんですか?

谷口:
結局全然血が出なかったね。
もうあの時に完全に、血管からなにまで全部侵されてしまったんでしょう。
だから、6日ぐらいしてからやっと血が出始めて、
それでたまに痛みがじわじわと襲ってくるけどね、
それは私にとって、まだ痛いというほどじゃなかったね。

それで、1ヶ月ぐらい全く血が ができなくて、
9月になってから、やっと が出来るように多少はこう、
そこで 大丈夫だろうという事で に送られてきました。

そこで一番初めにやったのが輸血ですが、
輸血だって、血管に注射針をさせますが、入っていかない。

岩上:注射が打てない。

谷口:はい。

岩上:輸血が出来ない。

谷口:
輸血でもね、入っていかない。
なんかそれで結局、内臓も全部侵されてしまっていたんでしょうね。

岩上:内臓が全部・・・

谷口:はい、心臓からなにから侵されてしまって、

岩上:侵されてしまっていた。

谷口:
だからそんな中で、あの時は牛を殺して肝を持ってきてね、
目の前に小さく切って、それを「生で食べなさい」と言われて、
「焼いたり炊いたりしたんじゃだめだ」っていうのね。

岩上:焼いたり炊いたりしちゃダメだと、生じゃないと…

谷口:はい。

岩上:どうしてですか?

谷口:それは結局血液がね、出来ないからでしょうね。

岩上:たとえば生のレバーみたいなものを食べると。そうすると血を取りこめるという事ですか?

谷口:
そうでしょうね。
だけどその頃は、原爆症のことは誰も知らないですからね。
なんか、そんな事をしてもよくならないし、
ずっと日にちが経つにつれて、焼けたところが腐って、流れていくわけね。


岩上:ああ・・・火ぶくれが大きくなって破れて、血が出て、・・腐っていくんですか?

谷口:
腐っていく。
そのやけどの写真のようにね、ただ横に溜まって、1日何回もぼろ切れでつまんで背中を洗ったんです。

岩上:痛かったですか?

谷口:
もう、痛いというんじゃなくて、苦しくて苦しくてね、
(映像はここまでです。)


まだインタビューは続いたようですが、映像がないので、文字起こしもここで切ります。
インタビューの概要が、下記です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
遡ること68年前、郵便局に勤務していた谷口氏は、長崎市住吉町の路上で集配中、轟音とともに襲来した爆風で吹き飛ばされた。「自転車に乗ったまま、後ろから焼かれ、飛ばされた。『ここで死んでしまうのか』という思いが頭をかすめた」。気がつけば、左手は肩から指先まで皮膚がべろりと垂れ下がっており、そばには、ぐにゃりと曲がった自転車と黒こげになった子どもの死体があったという。「私の体からは血は一滴も流れず、痛みを感じることもなかった。ムチで叩かれたように、一瞬だけ、すごく痛かったように覚えている」と説明し、こう続けた。「『死んでたまるか』と自分で自分を励ましながら、木の陰で2晩を過ごし、3日目の朝にようやく救助された」。

 その後は、うつ伏せ状態で寝たきりの生活に。「日がたつにつれ、焼けた部分がどんどん腐り始め、腐ったものが体の外に流れ出るのがわかった。1日に何度もボロ布でふき取られた。苦しくて苦しくて、たまらなかった。ペニシリンを使ったが、ほとんど効き目はなかった。しばらくして、特殊な飲み薬を服用するようになり、ようやく改善へと向かった」。

 自力でベッドから抜け出せたのは、1947年5月のことだったが、その折の痛みたるや尋常ではなかったという。「2年近く寝たきりだったのだ。頭から足の方向へと血液が流れる感覚を、私の体が完全に忘れており、立った時は針で刺すような激痛が全身を走った。目を閉じてこらえるほかなかった」。また、谷口氏は「寝たきりから開放されても喜べなかった。『こんな体で、社会復帰できるのだろうか』という不安が大きかった。戦争を憎み、原爆を憎んだ」と振り返った。

 退院後、谷口氏は郵便集配の仕事に復帰する。岩上が「体に無理はなかったのか」と尋ねると、「自分を鼓舞して必死に働いたのだが、背中の具合はずうっと悪く、その後、14回入院し、皮膚の移植を重ねた」と明かした。岩上が、さらに「健康被害と対峙しながら、社会復帰を果たした時、戸惑いはなかったか」と問うと、谷口氏は「戦時中は『国のために』という言葉をさんざん聞いた。それに対し、『本当は国のためではなく、一部の人たちのために、兵士のみならず、われわれ一般国民も戦わされたのではないか』と疑問を感じるようになった」と話した。

 現在、長崎原爆被災者協議会の会長を務める谷口氏は、「核廃絶」を訴える活動に尽力中である。長崎を訪れた修学旅行生に被爆体験を語る「語り部」を、ライフワークとして長年続けている。岩上が「核の平和利用、という宣伝文句で始まった原発事業が、福島であれだけの事故を起こしたにもかかわらず、再開されるムードが高まっている。一方では、日本に軍国主義が再来する兆候も見られるが」と水を向けると、谷口氏は「核と人類は共存できない。核には、きれいな核も、汚い核もない」と明言。次のように力説した。「私が長崎で浴びた放射能も、福島の事故で広がった放射能も、まったく同じ放射能だ。だから、われわれ被爆者は『核兵器をなくさなければいけない』と訴えるし、それと同時に『原発もなくさなければいけない』と訴えるのだ」。

 谷口氏は「原発の廃絶を訴える機運は、広島より長崎の方が強いのではないか」との見方を示す。長崎に投下されたプルトニウム型爆弾は、現代の核兵器の主体であり、原発の技術は軍事転用されるためだ。「長崎では、福島の原発事故が起こる前から、原発反対を表明していた」とした谷口氏は、「日本政府がインドに原発を輸出するという話が伝えられているが、『何を考えているのか』と安倍晋三首相に抗議したい。長崎の被爆者は、そういう思いだ」と力を込めた。この日、長崎市の田上富久市長は平和祈念式典で、「NPT(核拡散防止条約)に加盟しないインドへの原子力協力は、NPTの形骸化につながる」と平和宣言を読み上げている。
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そして今年の、長崎の平和式典では、田上市長は、「集団的自衛権」についても言及すると、ネットのニュースで読みました!!
一体、何のために多くの人々が犠牲になり、後世の私たちに伝えたかったのは何なのか、よく考える必要があると思います!!
広島の平和公園の石碑にある「過ちは繰り返しませんから」という言葉、心に深く刻み、何度も思い返したいと思います。
と一般人の私が思えることが、どうして政治家のみなさんに理解できないのか、、、(-_-;)
安倍コベは、広島と長崎の平和式典に参加して、何も感じないのだろうか……(;_:)
何も感じないとしたら、本当の阿呆としか思えません。。。
こんな御仁をだれが首相なんぞにしたのか、、、、、、、、

ヒロシマ、ナガサキで起きたことを、私たち日本人は後世に引き継ぎ、伝えて行く義務があると、私は思います。

私は、まだ広島の平和式典に参加していないのですが(-_-;)、私の友人は、毎年、ご家族で、広島、長崎と、訪ねている人がいます。
私より、若い世代のご家族です。
何だか、頼もしく、誇らしく思います!(^^)!
ボチボチおばさんも、いつかは、行かなくては、ねっ!!!









posted by ボチボチおばさん at 14:31| Comment(0) | 反核 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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