2014年07月20日

アーサー・ビナードさん、14日日中、宇部市の長生炭鉱跡視察ドキュメント

ようやく、14日のことを書く時間が出来ました(^_^;)

では早速、取り掛かりましょ。
今回は、とっっっっっても長いので、覚悟してお読みください<(_ _)>


14日の朝、私と仲間(一緒に脱原発活動をしているご夫婦が大きな車をお持ちで、好意でそれを出して頂きました。)とで、アーサー・ビナードさんを山口市のホテルまでお迎えに行きました。
10時と言っていたのに、やはりビナードさん時間で、15分遅れて、降りて来られました(-_-;)
(って、私もしょっちゅう遅刻するので、その点は、私は全く気にならないんですけどね(^_^;))

この日の一番の目的は、山口県宇部市西岐波にある第二次大戦中に事故のあった炭鉱の跡地に視察に行くことでした。
宇部市に行く予定時間までに、少し時間があるということで、山口市小郡にある、俳人、種田山頭火の旧居宅『其中庵』(ごちゅうあん)に寄ってみました。
ビナードさんは、2001年に中原中也賞を受賞された時にも訪問されたそうですが、その日も休館日で、14日も月曜日なので、また休館日でした。
駐車場に着くなり、その駐車場にあった句碑に、山頭火の句、『母よ、うどんそなえて、いただきます』があり、そこでミニ俳句講座が始まりました!
この句は、山頭火の亡き母の47回忌に読まれた句だそうです。
もし「うどんそなえて、母よ、いただきます」だったら、どうか?と聞かれました。
私はそっちの方が良いような気がしたのですが、そうなると、母に対する切迫感が薄まるので、母に対する思いを強く訴える印象を与えるのは、先に「母よ」が来た方が良いと、ビナード講師は話されました。
なるほど、そうやって、俳句にも第三者的な目が必要なんだな、とボチボチおばさんは理解しました。
ビナードさんが何気なく「其中庵」の戸を開けると、スーっと開きました。
「前の時も、鍵がかかっていなかったよ。」と言われ、私たちは、「入っていいの?」と思いながらも、中へ入りました。
中は、土間と畳6畳の部屋で、山頭火が着ていた衣や編笠が掛けてありました。
小さな机の上に、名簿帳があり、訪ねた人の名前が書いてありました。
ビナードさんは、おもむろにペンを出され、「中原中也記念館開館20周年記念にて、アーサー・ビナード」(正しいかどうかは?)と記帳されました。
後から来た、「其中庵」の関係者や、一般の訪問者はビックリされるだろうな〜、と私は思いました。
庵を出ると、季節外れの鶯が鳴いていました。
ビナードさんは、ちょっと感動されているご様子でした。
ボチボチおばさんの家の近くでは、今もしょっちゅう鶯が鳴いているので、あんまり感動は無かったけど、「其中庵」を出た途端に鳴いたというのが、印象的なんでしょうね。
俳句を作る人なら、そこで一句できるのでしょう。

そして、宇部市の西岐波にある個人病院が経営しているランチ&バーのカフェ『バル・ミエール』へ。
『バル・ミエール』は、以前このブログでも紹介しました、知的障害者の方も働いていて、なるべく無農薬・有機栽培の食材を使った、ランチとドリンクのみのカフェです。
http://botibotiikokaaa.seesaa.net/article/319930352.html
(今は、ランチは飲み物付きで1200円になりましたが、20食限定はそのまま。)
ビナードさんには、前もってメールで伝えていたのを読まれていたようで、とてもご興味がおありの様子でした。
カフェには、すでに、この後に行く長生炭鉱跡の説明をしてくださる方々がいらしていて、人数は、9名となりました。(友人に宣伝したけど、みんな月曜日ということで、都合がつかない人が多かったです。残念。)
ビナードさんは、いつもと変わらず、落ち着いた様子で、13日までの中原中也の詩の英訳を他の詩人の方々と議論し合っていた時のことを話されていました。
他の詩人の方々が、「アーサーは、ホテルで討論している時は、無精髭で声も低いし、あの風貌で強く主張されると、凄味があった。」と言われたとか。
ビナードさんは、「あの人たちは、恰好ばかり気にして。。。こっちは真剣勝負で取り組んでいるんだから、恰好がどうだってかまわないよね?」と、私にふられました。
確かにビナードさんに、真っ直ぐにジッと見つめられると、ちょっとゾクッとするので、「ビナードさんはアングロサクソンなので、その彫りの深い目でジッと凝視され、かつ無精髭だと、恐いかも。」と、私は答えてしまいました(^_^;)
ボチボチおばさんとしては、ハンサムが故に、そう見えるのだと、言いたかったのですが……(-_-;)
ただ、誰しも、真剣に仕事をしている時は、格好なんか気にしてはいられない!、とビナードさんはおっしゃりたかったのです!!
それは私もそうです!最近、野良仕事(家庭菜園やガーデニングの)をした後、買い物に行かなければいけない時は、暑さにへばって、お化粧もしないで出かけています!って、これはただのオバタリアン全開なだけですけどね(-_-;)

またこういう話もしました。
私:「日本は、あれだけアメリカ様様なんだから、アメリカの51州目になってしまえばいいんですよ。」
ビナードさん:「アメリカの中に入ることは出来ないよ。日本はアメリカの植民地、属国。奴隷なんだから。」
そう、アメリカの他の州とは同等にはなれないということなのです!!
そういう意識で、日本はアメリカから見られているということ、どうぞお忘れなく!

その後、病院の副院長(ビナードさんのファンでもあります。)がカフェに降りて来られ、ビナードさんとカフェの中を回って話されていました。ビナードさんもその先生が、障害者のために素敵なカフェを開かれていることや、福島から保養に来た子供たちの甲状腺の検査をされていることなどを聞かれていたようでした。
また、その先生の知的障害者のお子さん(もう成人の方)が写真集を出しているのをご覧になって、とても感動されていました。
その写真集は、あの有名な写真家、アラーキーこと荒木経惟に褒められたそうですよ!!

もちろん、ランチはとても美味しかったですよ(^_^)/
メニューはその日の材料によって変わるので、指定はできません。
ちなみに私たちが頂いたメニュー
 ・南瓜の冷製スープ
 ・春雨のようなのが入ったサラダ
 ・ズッキーニの花に海老の練ったのを詰めたもの
 ・ラズベリーのジェラート
 ・飲み物

そしてその間に、写真集を出された息子さんが、私たちの写真を撮っていて、お土産に頂きました。
バル・ミエールのみなさん、病院の先生、楽しく、美味しくランチを頂きました。
ビナードさんも満足された様子でしたよ。
どうもありがとうございました(^_^)/


そして、本当の目的の宇部市西岐波の海岸にある、長生炭鉱跡に向かいました。
長生炭鉱とは、あの第二次大戦頃に、宇部市にあった割と小さい炭鉱です。
本当だったら危険で掘るのは難しいと言われていたのに、戦争になって石炭がとても必要になってきたので、無理に掘られた、と聞いています。
その炭鉱で、1942年に海の下の坑道に水があふれ、183名以上の方が亡くなり、その内の136名以上の方が朝鮮(現韓国・北朝鮮)から強制連行された朝鮮人の方々でした。
しかも、戦後70年も過ぎようとしているのに、まだ一体の亡骸も引き上げられていないのです。。。
http://www.chouseitankou.com/

その炭鉱の坑道があった所に、海上に空気の換気口と言われていた、「ピーヤ」(大きな煙突のような形)なるものが2本、いまだに立っています。
それが見える海岸線の道が10年ぐらい前に出来て、海の中に見える大きな煙突、あれは何?と、家人に聞いたら、「あれは長生炭鉱と言って、戦争中に事故があった炭鉱の跡だよ。」と教えてくれました。(私は宇部市の出身ではないので、戦争中にそんな炭鉱事故があったことは知りませんでした。同じ県内の人でも知らない事故なのです。)

ビナードさんは、昨年の講演会の後の帰途の途中に、見送った仲間たちが、その炭鉱跡の近くを通るので、案内したようです。(私はその時、車が定員一杯だったのと、寝坊で行きませんでした。我家からとても近いんですけど(-_-;))
ビナードさんは、その時に聞かれた『水非常』という言葉が、とても気になられ、また近くに行ったら、ぜひ行きたい、と思われていたようでした。
また、海の中に立っている「ピーヤ」も、何語なのかと思われたようでした。
「ピーヤ」は多分、英語のpierで、桟橋という言葉からきているのでは、ということでした。

約3年前に建てられた慰霊碑に行き、まずそこから説明が始まりました。
私はちょっと離れていて、細かいことはほとんど聞こえませんでしたが、ビナードさんはとても興味津々で、あれこれ細かく聞かれている様子で、時間的にも長かったように感じました。
そこに到着した時は、雨が降っていましたが、終りの頃には雨が止んでいました。
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そして次は、昔に建てられた慰霊碑に車で移動しました。(距離にして500mぐらい。)
そこは昔、炭鉱長屋があった場所で、今もまだ一棟だけ残っていました。
周りは、今は草茫々ですが、昔は子どもたちが集まって野球をしていた広場もあったとか。
またすぐ近くに線路があるのですが、その炭鉱があった頃は、駅もあったとかで、よく見るとその形跡が残っていました。
ビナードさんは、「カメラを貸して。」と言われ、ご自分でその慰霊碑の写真を撮り始められました。
何かに使われるのでしょうね、きっと。

私が以前に聞いたのは、強制連行されてきた朝鮮の人々は、まるで奴隷のような扱いで、高い塀に囲まれた中から外出することも許されなかったということです。
また給料も、今でいう株券のようなもので、現金ではないので、すぐに使えなかったとか。
もしそこから脱走しようものなら、見せしめのために、みんなの前でリンチされ、半殺しの目に合っていたそうです。実際に死んだ人もいたのでは、ということでした。高い塀の中ですから、見つからなければ、そのまま隠すことが出来る環境ですから。
第二次大戦中や戦前の日本人は、朝鮮や中国の人々に、私たちからは想像もつかない酷いことを、平気でしていたようです。(それを、私は母からも聞いたことがあります。)
そのことは、本当は私たち日本人みんなが知っておかなければいけないことだと、私は思います。
例え、自分たちにとって都合の悪い歴史であっても、起こったことが事実であれば、それは後世に伝えるべきだと思います。

そういうことにご興味を持たれるビナードさんは、やはり凄い方だな、と思います。
しかし、長生炭鉱と同じような、朝鮮人の労働者がたくさん亡くなった炭鉱事故や土木作業中の事故が、実は日本中で、何か所もあるそうです。
そして今、その慰霊碑に反発の声が上がりつつあるそうです。
なんで?と訊ねたら、やはり、在日韓国人の人々にヘイトスピーチを堂々とするような時代ですから、日本がした負の遺産の証拠を消したいのでしょう、ということでした。
せっかく、過去の忌まわしい出来事を、どうか許してください、という気持ちで建てられているのに……。
今の日本は、そういう状況にあることを、みなさんにも認識して頂きたいと思います。
自分たちの方が偉いんだ、と思う差別思想から、暴力が生まれ、やがては戦争になって行くのです。かつての日本がそうだったように。。。

話を戻して、
その昔の慰霊碑から、ピーヤのある海岸にまで、藪の中を50mぐらい歩きました。
ビナードさんは、ジーンズに長袖のTシャツだったので、ゼンゼン大丈夫なご様子で、
途中に、小さなバッタを見つけ、優しくに手に載せたり、また野草の花を見つけ、少しだけちぎって「この花は、なんという花だっけ?」と聞かれました。ご自分でも、少し記憶があるご様子でしたが、ハッキリと思いだせない様子でした。
実はボチボチおばさんは、昔、山野草に凝ったことがあったのですが、とっさにその花の名前が出てきません。確か、とても個性的な名前だったことは記憶していたのですが……。
しばらくして、その花の名前が「ヘクソカズラ」(可愛い花ですが、匂いがあまり良くないので)だったことを思い出し、ビナードさんに伝えたら、「良い名前だ〜。」と言われ、そのちぎった花を、慰霊碑の傍にそっと置かれました。
「そうかな?可愛い花なのに、もっとかわいい名前にしたらよかったのに。」と私はブツブツ言いましたけど…。
ビナードさんは、ありのままの状況を伝えているその「ヘくそ」というのが、気に入られているのでしょうね。変に飾った言葉は、お嫌いなのでしょう、きっと。


その藪を抜けると、海岸線沿いの道路に突き当たり、道路の反対側にある防波堤の隙間から海岸に降りる階段を下りました。(その海岸線沿いの道路が、今は工事中で、それで仕方なく、藪の中を歩いたのでした。)
ピーヤは、いつもは、海岸から70mぐらい離れているので、波にはばまれ歩いては行けないのですが、この日は、引き潮で、ピーヤまで歩いていくことが出来ました。

ピーヤに着くと、そこでビナードさんと長生炭鉱に詳しい人たちが延々と話していました。
ビナードさんも、この際とばかり、次々と質問をされていたようです。
私はその間、デジカメで写真を撮りました。
しかし、ビナードさんも説明する人も写真のことは全然気にしていないので、ジッとはしてくれません。
だからあまり良い写真は撮れませんでしたが、数枚お見せしますね。
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長い間、ビナードさんと長生炭鉱の歴史に詳しい人たちが話していました。
そして、ようやく引き上げることになり、またおもむろにビナードさんが、砂浜に所々にある石炭のボタを拾われているので、「何に使うんですか?」と訊ねたら、「写真を撮ろうかと思う。」と言われました。
私も手伝いましたが、そこは海岸で、大きなボタの下には、何か小さな生き物がいます。
ビナードさんはまるで少年のように、ボタをはぐるのを楽しんでいらっしゃる様子でした。
ビナードさんは、子供の頃、ご家族と一緒に、川や海岸で、昆虫や海の生き物を採集されていたとエッセイにありました。
いくら年を経ても、そういう少年のような眼は、今も持ち続けていらっしゃるのだな、と思いました。
残念ながら、あまり生き物はいませんでしたけど。

そして海岸から道に上がった時に、また何かを思い出したかのように、ピーヤの方を振り返って、写真を撮り始められました。
後でその撮られた写真を見ると、アングルがとても素晴らしいのに、ボチボチおばさんは、とても感動しました(^_^)/(残念ながらビナードさんが取られた写真は公開できません。承諾が取れていませんので。)
私の撮ったピーヤの全体像の写真が下記です。
ビナードさんのものとは比べ物になりません(-_-;)
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その後、宇部市の常盤公園にある、石炭記念館へ向かいました。
宇部市は大正時代ごろから炭鉱で栄えた町で、宇部〇産という大きな会社が有名です。
石炭記念館には、炭鉱の歴史が展示されていますが、長生炭鉱に関しては、ピーヤの絵が1枚あるのみでした。
石炭記念館の中でも、やはり言葉がとても気になられて、炭鉱言葉を詳しく表記したパネルがあり、それを写真に撮って欲しいと言われました。(多分、お疲れが出て来られたのでしょう。)
やはり、言葉がとても気になられるんですね。

ということで、宇部でのスケジュールは完了し、防府市のホテルへ向かいました。
思っていたよりもかなり早く、ホテルに着きました。
ビナードさんは、そこで、車を出して運転してくれた友人夫婦に、お礼のご本(もちろんサイン入り)を2冊、用意されていました。
実は、ボチボチおばさんも、前日に、シッカリとサイン入りのご本を、頂いていたのでした(^_^)v
ビナードさんは、そういう風に、とても気を使われる方なのです!(^^)!

あれだけ才能が有って、素敵な作品ばかり作られ、そして周囲への気遣いを忘れない。。。
ビナードさん、どうかお気遣いされなくていいのですよ(^_^)/
素晴らしいお仕事、そして真実に基づいた講演をされるだけで十分で、私たちファンはそのお手伝いが出来るだけで、十分に幸せなんですから!(^^)!
実際、その運転をしてくださった友人ご夫妻は、私が依頼した時から、「ビナードさんが私たちの車に乗って頂けるだけで、十分、大喜びなんだから!!」と言われていました。

ビナードさんとはそこで別れて、私と友人夫妻は、防府市内の講演会場へ向かいました。
私は、今回はビナードさんの著書の販売をしました。
友人夫婦は、福島や護憲に関する署名集めや講演会の宣伝を、会場でされていました。
会場で準備をしていたら、知人がぼちぼちと来られ、本を買ってくださいました。

講演会は、最初の方は私は聞いていませんでしたが、途中から後ろの方で聞いていました。
いつもより少し硬い雰囲気がしました。
お疲れもあったのでしょう。
ライトのせいか、ビナードさんがホワイトボードに何か書かれているのですが、よく見えませんでした。
後半になるにつれていつものダジャレをポンポンと話されていました。

そして、最後の辺りで、ご自分のブログにも書かれている『マイボイコット』のことを話されました。
前々回にご紹介しましたが、もう一度、ご紹介します。
http://www.web-nihongo.com/wn/haragonashi/07.html/

アベノミクス(ビナードさんは「アホノミクソ」と言われてましたが。)を支えないで景気が冷えれば、安倍コベの支持率が落ちるので、今後3か月間、大きな買い物(家・不動産・車など)を買わないようにしましょう。それをみんながすれば、安倍内閣(またの名を「アブナイカク」)は倒れるでしょう、と言われていました。

いつものように、予定時間より10分伸びて、ようやく講演会は終り、今度はサイン会が始まりました。
ビナードさんは、サインをするときも、一人一人と話しながらサインをされるので、主催者が、「済みませんが、時間がないので、サインだけで、お客様の名前は遠慮してください。」と言われてました。名前まで書かれると、本当に時間がかかりますので。
時間がないということで、本の販売も、早々に切り上げました。
友人2名がボランティアで、手伝って下さっていたのですが、お礼もそこそこに片付け始めました。
まっ、時間がないんで仕方ないですね(-_-;)

ビナードさんはお客さんとサインをしながら話されていたので、邪魔をしてはいけないと思い、挨拶もしないで、私と友人夫妻は帰途につきました。
家に着いたのが、夜の10時半ごろでした。

友人ご夫妻には、何から何まで色々と心遣いいただいて、本当に感謝しています。
また、アーサー・ビナードさんという天才的芸術家の活動ぶりを、間近で見る機会を与えられたことに、心から感謝しています。
ビナードさん、本当にありがとうございましたm(_ _)m

やはり、素晴らしい作品を創るには、綿密な調査をされていることがよく判りました。
例えば、ビナードさんの絵本『さがしています』には、なんと4年もかかったそうです。
それだけ丹念に調べて、色々なことを準備・用意して、そして素晴らしい作品が出来ているのですね(^_^)/

長生炭鉱事故のことを、ビナードさんに、エッセイか、詩に書いて頂けたら、私たちはこれ以上の喜びはありません(^_^)/
亡くなった多くの方々も、少しだけでしょうが報われるのでは、と思います。
また、協力してくださった皆さんもとても喜ばれることでしょう。

ということで、夢のような2日間のドキュメントでした(^_^)/

でも、ビナードさん、、、どうか、もう少しゆっくりとお仕事をされてください<(_ _)>
とても過密スケジュールのように、私には見えます。
このまま行くと、いつか体を壊されるのでは、とボチボチおばさんはとても心配しています(-_-;)


でも、ビナードさんの講演会があったら、また行きたいな〜(^_^)/
そう言えば、またあの「追っかけさん」、西宮市からいらしてましたね!(^^)!


posted by ボチボチおばさん at 12:02| Comment(1) | 反戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
戦前、人権意識が低く、朝鮮人に対して差別的だった人、扱いが酷かった人もいたと思います。

でも、そうではなかった人も大勢います。

最初に、酷かったはずだからで、物事を見ているのではありませんか? 

その炭鉱では、日本人労働者もいて、犠牲になってますよね?そちらの方はおざなりにされているような印象がありました。

日本人の場合、徴兵で一番最前線の過酷な現場に行かされています。もともと日本人がやってた仕事で、手が薄くなった過酷な部分を当時日本国籍だった朝鮮人徴用の男性にお願いした事情もあります。

また、その当時、日本だけではなく、世界的にも炭鉱労働事態、労働条件が良くなかったのもあるでしょう
Posted by 大阪市民 at 2016年04月05日 11:07
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